2011年07月27日

on また手紙。

FBおそるべし。。。
〜そして、手紙のこと。

雨降るって言ってた?ったくもう、降らないはずなのに降ったらしい。2号です。

大変!
昨日、あんなコト書いて、今日、ふと気になって検索してみたら、FBにいた。。。

もしかしたら、生きていないかもしれないと、勝手に思っていた。
おそらく、手紙での、自分の家系の話の時に、早死にの家系とかなんとか書いてあったか、早死にの予感がする(職業柄?)とか言ってたかして、そんなようなイメージがあったのだろう。
しかも、今回の古い手紙の整理は年代順に見てるので、どこでどうなって文通が途絶えたのか、まだ調べ(?)がついてないのだが、最後は行方不明になったという印象が残っている。あっちがほかに気にかける人でもできたとか、結婚でもして消えただけだったかもしれないけど、放浪してどこか遠くで息絶えた!?みたいな妄想も、私の中にはあったりしたので。

そして、驚いたことに、FBによると、生きてはいるのだけど、放浪も大放浪、その結果、今、海外にいるみたいだ。

もともと、生い立ちが複雑な環境の人だった。
本当は、仲の良かった数人の男女で、いっしょの高校に行ってただろうに、突然、学費の要らない(給料の出る)学校へ入ることになり、遠くに行ってしまった人だった。(だからこそ、「文通」という形で交遊(?)していたのだが)。

しかし、手紙というのも、とっておくもんだ。
何年かで捨てちゃうって人もいるみたいだけど、今回、人生で初めて、膨大な量の古い手紙(8、9歳くらいからの)を見返すということをしてみて、これが、こんなにおもしろいことだったとは、驚きだ。
年代順に見ると、みんな、鉛筆書きの大きな字の短い手紙から始まって、だんだん字がうまくなり、内容も子供子供したものから、おませな感じになって、思春期特有な感じになって、急に大人びて行って…みたいな成長が、手に取るようにわかる。当たり前だけど。
そして、言葉の端々から、私が出したであろう手紙の内容も垣間見える。悩んでいたり、落ち込んでいたり、何枚もの旅行記を書き送ったらしいこととか、もちろん、恋をしていたこととか、勉強のこと、etc.
「長い間、お返事しなくてごめんね」とか「◎◎の長い手紙をしばらく読めなくてさびしかったよ」とか、お互いの返信がだんだん間隔があいていったような形跡が見え、次の年の束の中には、その子の手紙が一通もない、みたいなことになっていたり。子供のころの友だちは、会えずにいると、年代とともに疎遠になってしまうものなのか、と、しみじみとする。
自分も転校続きだったし、相手が転校して行ってしまったケースももちろんあるし、中学進学で別れたり、高校進学だったり、文通のきっかけは、ある種の別れがあってのことだったんだなぁと、当たり前のことも思う。差出人の住所もいろいろで、遠くは九州熊本だ。宛て名の私の住所も、東京、仙台、北海道山越郡、そして、札幌とさまざま。
「また引っ越したのね?」みたいな驚きを、正直に書いて来てる子もいる。1年に2回も住所が変われば、確かに驚くよね。
日本全国津々浦々、とまではいかないまでも、見てると、何か壮大なやり取りをしていたような、楽しい気分にもなる。

会いたい人がたくさんいる。
こんなにもたくさんの言葉を交わした人たち。どうして途絶えてしまったんだろうと、むしろ不思議に思う。私がもっと大切にするべきだったのか?理由はまだわからない。(まだ、全部見てないから)

ひとつ、達筆なハガキがあった。
なんと、その熊本に行ってしまった女の子のおじい様からで、一時期、祖父母宅に住んでいたらしいその子が引っ越して行って、おじい様はまだその住所を知らない、だから、わかってから私の手紙を転送するので、その孫娘からの返事が遅れていくと思うが、了承してください、みたいなことが書いてある。
なんかもう、胸が熱くなってしまった。なんと律儀な。もったいない。。。
確かに、そのようなあたたかいおじい様を持つその子の手紙は、特にたくさんあって、大人っぽくてやさしくて、とても素敵な友だちだったということが、文面からわかる。もちろん、ほかにも素敵な友だち、素敵な手紙がいっぱいあるのだけど、数において、その子のが群を抜いていた。

今思えば、祖父母宅に身を寄せていた、というのが、どういうことだったのか。当時の私は気にもしてなかったのか、子供ゆえにそこまで考え及ばなかったのか、単に忘れているのか…何があったんだろう?自分が祖父母宅に身を寄せていた時は、父が突然死して、ほかに行くところがなくて、という事情があったのだけど、その子にも、何かそういうことがあったのだろうか。
あぁ、会って、話したいねぇ。

っていうか、今、私は、たまたま三浦綾子さんの小説を読んでいる。
読み始める前、ちょっと躊躇した。というのも、最近読んでたのは現代的な軽め(?)のが続いていたので、小説然とした正統派のもの(と私は勝手に思っていた)に、気分的について行けるだろうかと。
ところが、これが、読んでてとっても気持ちがいい。文体とか表現とかが極めて「普通」で、それはむしろ、文や表現にムダがなく、スッキリ内容を淡々と伝えることに徹してる(作者の無意味なキャラが垣間見えない、みたいな?)からかもしれなくて、なんか、すごく新鮮なのだ。
そして、古い年代のことを書いてて、書かれたのもずいぶん前だからなのだけど、会話が古き佳き時代の礼節を漂わせた雰囲気で、女学生なんかが「〜じゃなくってよ」みたいなしゃべり方なのが、ミョーにグッと来てしまう。いいなぁ、こういう時代に行ってみたいな〜と、まさに萌え(←死語?)状態で読んでると言っていい。
そして、古い手紙の中の、私の友だちたちの言葉も、「〜なくってよ」までいかないまでも、それに近い趣きがあることに、感動してしまっておる。トシとともに、こなれたようなくだけた表現も増えるのだけど、要所にはていねい語が使ってある。これが、やはり新鮮で、気持ちがいいのだ。
これだけで、全員、すごくいい子に見える(!)。言葉って、大事だ。

世にメールというものが出て、カタいとかつまらないと思われないための、メール用の軽い言葉遣いが推奨され、「これ、誰?」みたいな、およそ本人のキャラとかけ離れた言葉遣いで、なおかつかえって無個性に見えるメール(の言葉)に反発を感じて(もともと手紙などを書きつけない人たちまでも、手紙(らしきもの)の世界に闖入して来てかき乱してる、みたいな?)、しばらくの間、私は従来の手紙みたいな言葉遣いのメールを書いて抵抗していたのだけど、古い手紙は、そんな私ですらいつの間にか忘れていた、かつて好きだった言葉の趣きみたいなものを、もう一度味わわせてもくれる。
こう言ってはクサイのだが、まさに「青春」の忘れ物が届いた感じ。そうとしか、言いようがない。

今でも、時々手紙をやり取りする友だちはいる。やはり、その手間、その時間、その人のために割くというのは、とても貴重な感じがする。それゆえに、その人との関係も、その分大切なものになっていく気がする。
今やり取りした手紙を見返す日が来るだろうか。それは、正真正銘、老後(の楽しみ)になるのかもしれないな。でも、やっぱり、楽しみ♪
あとから見て、恥ずかしくないものを書こう。それはつまり、恥ずかしくない生き方をしよう、ということでもあるのだが。。。(2号)



posted by 2号 at 18:13| 北海道 ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | 回想・思い出 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
久しぶりに覗いてみました。
さすが、ワカルというか、ええ話や…。
Posted by janua at 2011年08月16日 18:53

januaさま

昭和!!
Posted by 2号 at 2011年08月17日 13:08
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